細川忠興と本多忠勝の陣跡【関ケ原古戦場完全ガイドvol.14】

関ヶ原古戦場で最も新しい(若い)史跡である細川忠興の陣跡と、住宅街の中にあってひっそりと佇む本多忠勝の陣跡をご紹介します。
本多忠勝の陣跡はちょっとわかりにくですが、こんなところにあったんだ!と見つけると嬉しくなるような陣跡です。

※なお、東西両軍の陣営や陣の場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事を御覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

公園の中にある細川忠興陣跡

2013年にリニューアルされた細川忠興の陣跡です。
公園の中にあり、史跡の中では一番キレイ(若い)ので、史跡らしさがないように感じます。

位置的には、黒田長政・竹中重門隊の南側に布陣していた細川忠興。
石田三成の本隊と激闘の末、首級を136も上げる活躍を見せました。

今は牧歌的な公園となっています。

細川忠興は豊臣恩顧の代表格のような大名で、妻はあのガラシャ。
そもそも東軍に属している背景とはなんなのでしょう?

合戦前に徳川家康から「但馬一国(10万石)」を提示され、東軍に与します。彼が東軍への加勢表明が早かったことが、他大名にも影響を与えたと言われています。

しかし合戦前にはとても悲しい出来事が。

大坂城内の玉造にある細川屋敷にいたガラシャは西軍の襲撃を受けます。
ガラシャは人質になることを要請されますが、拒否し、自害してしまいます。細川屋敷のあった場所は大阪城の玉造方面にあり、石碑も建てられています。

住所: 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811−104

住宅街にある本多忠勝

本多忠勝の陣跡は21号線の南側。住宅街の中にあるので、かなりわかりにくいです。

忠勝は関ヶ原合戦の軍勢はわずか500と少ないことに疑問を持つ方も多いでしょう。

関ヶ原での役割は、豊臣恩顧の大名が裏切らないようにするための監視役にあったともいわれています。

他の軍勢は秀忠の上田城攻めに出陣していて、兵数が少なかったとも言われています。それでも猛将・本多忠勝の名にふさわしく、90にも及ぶ首級をあげます。

関ヶ原合戦前は、福島正則・池田輝政らによる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦。吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍につくよう調略も行いました。おおいに活躍をしたとして、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に転封します。以前の領地あった大多喜は次男の本多忠朝に別家5万石で与えられます。本多忠朝といえば、大阪の陣で飲みすぎてしまい戦死してしまったという逸話があります。
その失敗から、彼のお墓は酒封じ祈願ができる場所として有名です。

本多忠朝の墓についての記事はコチラ↓
お酒の飲み過ぎで冬の陣で失敗…説得力ある酒封じ祈願の本多忠朝の墓

住所:関ケ原町大字関ケ原3441-1
駐車場:なし
WC:なし

※関ヶ原古戦場全体を知りたい!という方は次の記事を御覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:関ヶ原古戦場