藤堂高虎・京極高知陣跡・中学校の中にある史跡【関ケ原古戦場完全ガイドvol.13】

関ヶ原古戦場の中でも、唯一中学校の駐車場内にある藤堂高虎と京極高知の陣跡。
平日以外は入りづらい雰囲気がありますが、観光協会に確認したところ、土日でも史跡だけは見学可能

門は空いており、車も停められます
ただし見学が終わったらすぐに退去するというルールは守りましょう。

近くには東軍の先鋒福島正則の陣跡があります。

※※なお、東西両軍の陣営や陣の場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事を御覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

大津城で戦った京極高次の弟

京極高知は信濃飯田城の城主で、秀吉死後は家康に接近。関ヶ原合戦では当初から東軍に与し、岐阜城攻めでも活躍。戦後は丹後12万3000石の宮津城城主となります。

一方兄の京極高次は近江大津6万石の大名で義理の姉が淀、義理の妹が江と東軍、西軍どちらかを選べない状況で。
しかし石田三成の挙兵にともない、機内は西軍に制圧されやむを得ず西軍へつかざるを得なくなります。

さらに状況は一変。

9月3日関ヶ原に向かう途中、断りもなしに勝手に大津城に籠城してしまうのです。
大津が西軍の攻撃拠点にならないように城下町を焼き払い、約3000の城兵と籠城するという用意周到ぶり。
つまり、ここで東軍に寝返る意思表示をした京極高次。
その旨を井伊直政に密書を送り、籠城したことを伝えています。

大津は交通の超要所。
琵琶湖水運の拠点、中山道、東海道、北国街道の抑えでもあります。
しかも大阪城にいる西軍の総大将・毛利輝元が関ヶ原に向かう場合、大津を通らざるを得ない、西軍にとっては生命線のような場所でした。

三成は何とか説得しようと、淀の侍女の孝蔵主と阿茶局が派遣されますが、淀川の侍女の面会をを拒んだので交渉決裂します。
石田三成的にも、寝返った大名の離反を懸念したこともあり徹底的に叩きのめさねばならない状況となり、大津に総攻撃開始します。
担当したのは毛利輝元の叔父に当たる毛利元康ら1万5000

かなりの軍勢ですね。

しかし京極高次軍は3000余。それでも1週間籠城して耐えていました。

西軍はとどめを刺します。それが大砲による攻撃です。

園城寺(三井寺)の観音堂前に大砲を据え置いて大津城を攻撃。砲弾によって店主や櫓を破却するのを目的としていて、本丸御殿の柱が折れて、松の丸殿の侍女2名が下敷きになって死亡し、松の丸殿も気絶してしまうほどでした。

二の丸・本丸の陥し、西軍は京極高次に降伏開場をすすめた結果、大津城は降伏開城します。
京極高次は三井寺、高野山に出向いて出家します。

この大津城の籠城のおかげで、15000の兵を足止めできたことは東軍勝利に大きな意味をもたらしました。
合戦後は高野山より呼び戻され、25000国の加増、若狭小浜85000石の大名となりました。

早々に東軍についていた藤堂高虎

主君を7回変えた、築城の名手などのイメージが強い藤堂高虎は元々家康と親交があったため、豊臣家臣団が武断派・文治派に分裂すると、徳川家康側に与することをいち早く決めていました。

会津征伐に従軍後、福島正則・池田輝政らと河渡川の戦いに参戦。関ヶ原本戦では大谷吉継を隊と対峙し戦います。

武功よりも評価されたのは調略。

西軍のキーとなった松尾山の裏切り。
ここに加勢した脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らと裏で説得し、寝返らせることに成功しています。
その労をねぎらわれ、今までの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となりました。

二人共早い段階で東軍につくことを決めていたのですね。
京極高次は大津城の総攻撃で開城してしまいますが、結果的にはその武功が評価され、高次も高知も石高が増えています。

もし西軍が勝利していたら、この二人はどうなっていたのでしょうか。

※関ヶ原合戦の全体を知りたい!という方は次の記事を御覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

住所:関ケ原町大字関ケ原2491-101
駐車場:なし
WC:なし

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カテゴリ:関ヶ原古戦場