東軍最前線の福島正則の陣跡【関ケ原古戦場完全ガイドvol.12】

関ヶ原古戦場の福島正則の陣跡は、21号線より南側の春日神社の中にあります。
福島正則は東軍の先鋒という名誉なポジションを任され、対峙する西軍副大将の宇喜多秀家隊と戦います。

福島隊には槍の名手である可児才蔵がおり、いくつも首級を上げたと言われています。
福島正則の陣跡は駐車場があり、場所も分かりやすいです。

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

東軍に与した代表的な豊臣恩顧の大名

福島正則は脇坂安治と同じく賤ヶ岳の戦いにおいて、七本槍の一人として活躍。
以降、豊臣政権の代表的な大名として活躍してきました。

しかし、文禄・慶長の役で5奉行の石田三成との仲が険悪になってしまい、加藤清正らと石田三成襲撃事件を起こすことに。
この仲介に入った徳川家康と急接近し、いち早く東軍への加勢を決めたと言われています。

また、正則の姉の子である養子・正之と家康の養女・満天姫との婚姻が実現。
豊臣の遺命に反する「諸大名の私婚」に当たるものでしたが、福島正則はそれでもこれが豊臣のためになると信じていたと言われています。

関ヶ原へは清州城から進軍し、西軍の織田秀信の軍勢が待ち構える木曽川を池田輝政隊と攻略。
手薄になった岐阜城を、黒田長政らと共同で陥落させます。

福島正則が美濃路から中山道に入り、東軍が勝利したこと、家康が凱旋帰国をしたことで美濃路は「縁起のいい路」として知られています。

東軍の先鋒だが井伊直政に出し抜かれる

その後、福島正則は東軍の先鋒を務めることになります。
東軍としても豊臣恩顧の大名が先鋒をつとめるという大義名分が、与した他の豊臣恩顧の大名らを引き止めておくのに必要だと考えられていました。
しかし徳川譜代の大名的にはそれは豊臣方の大名の影響力が高まることを懸念。

松平忠吉と井伊直政は、忠吉の初陣の見学と方便を使い生前線へ移動し、宇喜多隊に襲撃を開始。
一番やりを抜け駆けされてしまいます。

しかし、福島正則が戦のあとにそれをとがめることはしませんでした。
彼にとっては戦に勝つことが重要だったのでしょうか。

宇喜多秀家隊の明石全登隊と激しい戦いを繰り広げ、一時は明石隊に押される場面もありましたが善戦。
松尾山からの小早川秀秋の裏切りにより、西軍は壊滅状態。

東軍が勝利となります。

福島正則はこの戦いで武功を上げたとして、安芸広島と備後鞆49万8000石を得ることになります。
しかし、弟が大阪の陣への際に豊臣方に兵糧を入れようとした嫌疑がかけられ、弟は伊勢山田に改易、そこで死去。

元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断で直したとして信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡に減転封となりました。

一緒にまわりやすい史跡

近くには関ヶ原中学校があり、その駐車場には京極高知藤堂高虎の陣跡があります。
また、本多忠勝の陣跡もまわりやすいと思います。

西軍の方へは脇坂安治の陣跡、小早川の松尾山も近いです。

住所:関ケ原町大字関ケ原4146-1
駐車場:なし
WC:なし

※関ヶ原合戦の全体を知りたい!史跡に行きたい!という方は次の記事を御覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:戦国ネタ