一気に見られる最後陣地・田中吉政・松平忠吉と井伊直政陣跡・東首塚【関ケ原古戦場完全ガイドvol.10】

関ヶ原古戦場の史跡巡りは一箇所、一箇所離れていて、車の場合は乗り降りを頻繁にしないといけなくて巡るのが大変。
そう思われている方に、唯一4つも一気に史跡が見られる場所、それが徳川家康最後陣地→田中吉政→松平忠吉・井伊直政陣跡+東首塚です。

なぜセットで見られるかですが、この史跡は最後陣地が広場になっていて、松平忠吉・井伊直政陣陣営の陣跡まで一本の道でつながっているのです。そして松平忠吉・井伊直政陣と東首塚は同じ場所にあり、一気に4つセットで見られるというわけです。

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

松平忠吉と井伊直政の陣跡

一番やり、先鋒隊。
よく聞きますがそんなに名誉なことなの?という疑問はありませんか?

武士にとってはとても誉れ高い役割で、その軍を代表するような存在であり、選ばれし者だけが任されるポジションなのです。
しかし東軍の先鋒隊は、豊臣恩顧の福島正則です。

なんだか違和感はありませんか?

本来なら家康のまわりには徳川譜代、結束の固さで知られる三河武士というメンバーから選出されることになりますし、徳川家康は豊臣政権色を潰したいと思っているわけですよね。

しかし関ヶ原合戦はあくまで「豊臣の大名同士の戦い」で、豊臣VS徳川ではないのです。

本来は豊臣恩顧の大名を先鋒に立たせるのはおかしいし、もし勝利したなら豊臣恩顧の大名の地位が上がるのではないかと懸念する井伊直政と本多忠勝は反対します。

しかし今回の戦では、豊臣恩顧の大名が東軍の先鋒を務めるということが重要なのです。
もし、豊臣VS徳川だったら、間違いなく徳川軍に加勢する豊臣恩顧の大名はいないでしょう・・・。
彼らをひきとめておくためには、どうしても福島正則を先鋒に置くしかなかったそうです。

最終的に井伊と本田も先鋒隊に入ってましたが、最前線は福島正則。

いろいろ言っても仕方ない。

そう思ったのか、井伊直政は実力で先鋒を勝ち取る行動に出ます。
自身の軍勢の精鋭数十騎と4男の松平忠吉を連れて最前線へ出ていきます。
この時に直政を呼び止めたのは可児才蔵

「先鋒は福島隊ですけど?」と何故前にゆくのかと尋ねます。

直政は「忠吉公は今回が初陣。戦を見聞させるために前に行くだけ」と。
徳川家康の四男の名前を出されては、さすがに引き止められない状況。
そして一番最前線は井伊の精鋭部隊と忠吉となりました。

最前線に出ると井伊直政は宇喜多軍に銃撃を開始
え、話が違う!
誰もがそう思ったことでしょう。
しかし、戦は始まってしまいそんなことでもめている場合ではありません。

これがきっかけで福島隊も銃撃を開始し、黒田隊は丸山の狼煙場から狼煙をあげ、三成の方も狼煙をあげて合戦開始。
徳川譜代が合戦の火蓋を切ったという名目をつくることができたことになります。

ちなみに松平忠吉と井伊直政は、島津の敵中突破を追撃する役割も担います。
旧伊勢街道を逃げる島津軍との激戦は、関ヶ原合戦をしのぐ壮絶ぶり。

このときの怪我がもとで二人共数年後亡くなったと言われています。
関ヶ原古戦場で合戦を体感するなら、島津の退き口ルートもぜひ行っていただきたいです!!

・徹底解説しています!
島津の敵中突破と退き口

松平忠吉と井伊直政の陣跡と一緒にある東首塚

陣跡と一緒にあるのは東首塚。

こちらは激しい合戦で破れたたくさんの武士たちの亡骸を、せめてお顔だけでもキレイにして埋葬してあげようと思った村人たちが使った井戸があります。こちらは通称「血洗いの井戸」と呼ばれています。

戦後処理も相当大変だったと思いますが、この役割を担ったのは竹中重門です。
たくさんの死体の埋葬、住民らの生活の復興など想像を絶する大変さだっと思います。

竹中重門を偲ぶ方は、垂井町の竹中半兵衛の陣屋、菩提山にもぜひ足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

田中吉政の陣跡

松平忠吉と井伊直政の陣跡から最後陣地へ向かう途中、歩道にひっそりたたずむのが田中吉政の陣跡。
あまりに道に馴染みすぎて、見逃しそうな陣跡です。

現在の史跡は存在感がないのですが、合戦当日は最前線の福島の後ろにいた前線隊を率いていました。
筒井順慶の養子の筒井定次の隣です。

田中吉政はもともと豊臣秀次の宿老として、豊臣家で活躍。
豊臣秀吉が北条氏を攻略した時、目の上のたんこぶだった徳川家康を関東に転封、織田信雄も下野国に転封、重要な尾張は豊臣秀次が配置されることに。小田原城攻めの功績を買われ、吉政は三河国岡崎城5万7400石の所領が与えられました。

文禄4年(1595年)、秀次は自害させられ、多くの家臣が処分を受けることに合ったのに、なぜか吉政ら宿老は咎めるどころか、「秀次によく諌言をした」ということで約3万国の加増、翌年更に1万4千石加増され、10万石の大名となりました。

そして、岡崎城を近世城郭に整備した。そしてした。また、西側の低湿地の埋め立てを行った。さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。

ここで田中吉政が岡崎城を近世城郭に大改修。城下町を27曲がりと、日本で1・2を争うくらいクネクネにして防御したり、城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を作ったり、大きな櫓をバンバン立てて、徹底的な守りをつくります。
この町割り、田中吉政改修の岡崎城が今でも味わます。

岡崎城については「「三浦正幸先生と行く 岡崎城月見櫓と暮六つツアー」に参加しました」記事でも解説しています!

秀吉の死後は家康側に立ち、東軍として参戦。

同郷の石田三成を捕らえた功績でまた1つステップアップします。
(三成が田中吉政の手で捕られたいと指名したとも。柿は健康に悪いと拒否したので、健康に良いからと言ってニラ粥を与えたエピソードはまさに田中吉政。)

家康の最後陣地

広大なピクニックエリアのような広場になっている最後陣地。
貴船神社が敷地内にあります。

なぜ最後陣地かというと、最初は桃配り山に布陣していました。
しかし西軍の善戦で想像以上に勝利が見えないことに苛立ちを隠せない徳川家康。

・ 馬に乗ったまま現れた野々村四郎右衛門を刀で切りつけようとする
・小姓の指物を切り落とす
など、危険際まわりないほど殺気立っていたというエピソードがあります。

前半で積極的に戦っていたのは西軍の大谷・宇喜多・石田・小西隊。

後ろの南宮山が動く気配がないので、監督の意味で置いていた山内一豊・有馬豊氏を援軍に配置し、自分も最後陣地まで進軍して東軍の士気をあげたと言われています。

そしてキーとなる、小早川秀秋の松尾山。
この裏切りが結構され、西軍は壊滅。大谷は自害、石田三成らは敗走、取り残された島津軍は敵中突破で伊勢街道へ敗走。
これで東軍の勝利となり、最後陣地で首実験したと言われています。

その首実検後の亡骸は竹中重門が西首塚に首塚を作って埋葬したそうです。

おすすめの回り方

おすすめの回り方は徳川家康最後陣地に車を止め、歩いてすべて回ることです。
松平忠吉・井伊直政陣跡までおよそ10分程度です。

住所:関ケ原町大字藤下445-4

■徳川家康最後陣地
住所:関ケ原町大字関ケ原1202
WC:あり

■田中吉政陣跡
住所:関ケ原町大字関ケ原959-2
駐車場:なし
WC:なし

■松平忠吉・井伊直政陣跡
住所:関ケ原町大字関ケ原908-3
駐車場:なし
WC:なし

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください!
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:戦国ネタ