松尾山の麓にある脇坂安治陣跡【関ケ原古戦場完全ガイドvol.9】

小早川秀秋の裏切りを間近でみた武将。
それが脇坂安治なのではないでしょうか。

というのも、関ヶ原古戦場松尾山のすぐ麓に陣を張っていた脇坂。
近くを守っていた、朽木元綱(くちきもとつな)、赤座直保(あかざなおやす)、小川祐忠(おがわすけだた)とともに、東軍に寝返り、大谷吉継隊・平塚為広隊らを追い詰め、壊滅させました。

その裏切りに呼応した4武将の中で、一番処遇が良かったのは脇坂安治。
本領安堵で、江戸時代までお家は続きました。

そんな脇坂安治の陣跡は21号線より南、戦国ロードから少し折れたところにあります。
少しわかりにくいですが、戦国ロードを通って、大谷吉継の陣跡から21号を渡り、少し進んだところにあります。

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

賤ヶ岳七本槍のひとり

元は浅井長政の家臣でしたが、主家を見限り織田家に仕えます。その後、明智光秀の与力として活躍。
丹波国征討のために行われた黒井城の戦いなどで武功を上げます。その後は豊臣家の家臣として、賤ヶ岳七本槍の一人として活躍し、天正13年(1585)淡路洲本3万3千石の大名となります。

そして秀吉死後、会津討伐に次男・安元を参陣させようとしたものの、石田三成らに妨害されて参戦できず。
その旨を家康に伝え、戦いに備えて防備するように指示を受けます。

この時点でもう東軍ですよね。

そのまま東軍に与する予定でしたが、石田三成が大阪で挙兵してしまったので、西軍につくことになりました。

関ヶ原合戦では西軍として大谷吉継軍に属し、戦うことになるのですが、藤堂高虎からも東軍への勧誘を受けていたこともあり、脇坂は裏切りの前に東軍に寝返る事前通告ができていました

いざ、小早川の裏切りが開始されると、朽木元綱(くちきもとつな)、赤座直保(あかざなおやす)、小川祐忠(おがわすけだだ)とともに大谷軍を襲撃します。

裏切った4武将の処遇の落差に注目です。

朽木は事前に家康に手紙を出していた甲斐もあってか、1万石厳封の本領安堵

脇坂安治は本領安堵からの、大阪の陣で次男が活躍したこともあり、慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封

しかし事前通告がなく裏切った赤座直保と小川祐忠は平塚為広の首を取るなど武功を上げたにもかかわらず改易されてしまいます。

裏切ったおかげで東軍は勝利したのに、なかなか厳しい判断です。

ちなみに兵庫県のたつの市にある龍野神社は、脇坂安治を祭神としている神社。
神様として地元の方に親しまれてきました。

脇坂安治陣跡へのアクセス

戦国ロードと呼ばれる道を南下すると松尾山の方へ向かいますが、21号線を渡ってすこし進んだところにあります。
この名前は史跡巡りのための道ではなく、国道21号線と365号線の渋滞緩和のためにできた広域農道の1つ。
信号がなくちょっとわかりにくいのですが、案内表示が出ているので行けると思います。

松尾山の麓であり、大谷吉継の陣跡のすぐ近くであったことが距離的にも体感できると思います。
回るルートとしては、島津義弘の陣跡、大谷吉継の墓、平塚為広の陣跡と戦国ロードから行きやす西軍の陣跡を巡ってみてはいかがでしょうか。

各陣跡の距離感がわかると、ずいぶんと至近距離で裏切られた大谷吉継隊の辛さが想像できる
と思います。

住所:関ケ原町大字藤下476-1
駐車場:なし
WC:なし

※東西両軍がどのように陣をはったのか、全体を知りたい!
史跡巡りに行きたい!という方は次の記事どうぞ。
アクセス方法、おすすめの回り方、トイレ情報までまとめています。

→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:関ヶ原古戦場