小西行長の陣跡と関ヶ原合戦開戦地は同時に見学可能!【関ケ原古戦場完全ガイドvol.7】

キリシタン大名の小西行長は、関ヶ原合戦では、宇喜多秀家の北側に約6000の兵を率い、前線で戦います。

天満山の北の方に陣を張り、開戦の烽火(のろし)をあげたのも小西行長なです。
ここは北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所で、島津。宇喜多・大谷・平塚・戸田らと守っていました。

関ヶ原古戦場では、小西行長の陣跡がセットになっているので、古戦場めぐりではアクセスしやすいスポットです。

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

アクセスについて

小西行長の陣跡までのアクセスは、駅からだと少し距離があります。
車の場合、21号線の「松尾」交差点から北へ2分

松尾といえば、あの松尾山?
インパクトがあって覚えやすいですよね。

小西行長の陣跡は、のどかな田んぼの中。
大きな「関ヶ原開戦地」とかかれた石碑があるのですぐに分かると思います。

対して陣跡は、開戦地の石碑の裏手にひっそりと佇んでいます。
謙虚な雰囲気です。

駐車場も開戦地が大きく書かれ、おまけ的に小西行長の陣跡表示が。

それでも合戦当日は6000もの兵を率いて、東軍の田中吉政・筒井定次と戦った激戦区。

なぜ「北天満山」というか。

天満山は今でもあり、宇喜多秀家の陣跡は天満山の麓の天満神社にあります。
しかし、小西行長の陣跡は山ではなく平地になっているので、「え、どこが山?」と思うかもしれません。

関ヶ原観光協会のHPによると、以下のように解説されていました。

山頂に布陣できるスペースはなく、中腹に布陣したものと思われます。また、後に村人らがここに大きな溜め池を設けたため、当時の陣地は池の中に没したと『関ケ原合戦図志』に紹介されています。

そもそも山の中腹に布陣していたこと、そして溜め池を作ったときに陣地はなくなってしまったという見解のようです。
陣跡感がないのですが、「開戦地」石碑があるので「ここからスタートした感」は十分にありますよ。

住所:関ケ原町大字関ケ原2368-1
駐車場:15台
WC:なし

小西行長が身を潜めた揖斐川町の観音寺

4時間位は西軍優勢でしたが、松尾山の小早川秀秋、脇坂らの裏切りで大谷隊が壊滅。
大谷吉継が自害してしまい、石田三成らも伊吹山の方へ敗走します。

その情報を聞いてか、小西行長は天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走
身を潜めたのは、西美濃三十三霊場の第12番霊場である揖斐川町の観音寺
山の中にあるので、なかなか参拝するのが大変なお寺です。

お寺でかくまっていたものの、数日で捕らえられ処刑されてしまいます。
キリシタンのため自害ができず、処刑という道を選んだとも。

ウィキペディアには以下のように、囚われたときの経緯が書かれています。

9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。

処刑の話を聞き、祟(たたり)を恐れた村人たち。
遺品を埋葬したお墓と位牌で供養をしたとのこと。今でもお寺には小西行長の位牌があります。
その供養のために、千手観音像と大日如来像と釈迦如来像3体を譲り受けたということですが、いずれも県や町の文化財に指定されています。

参考記事:いわれのある岐阜県・中山にある観音寺の千手観音像

しかし、小西行長は敬虔なキリシタン
改めてキリスト教のカトリック方式に乗っ取り儀式が行われたそうです。

そう思うと、位牌があるということが不思議ですよね。

小西行長の陣跡から観音寺までは車で1時間。
かなり時間を要するので、前もって計画して訪問するのが良いと思います。

北天満山・小西行長陣跡
住所:関ケ原町大字関ケ原2368-1
駐車場:15台
WC:なし

※東西両軍がどのように陣をはったのか、全体を知りたい!
史跡巡りに行きたい!という方は次の記事どうぞ。
アクセス方法、おすすめの回り方、トイレ情報までまとめています。

→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:関ヶ原古戦場