島津義弘の陣跡、敵中突破と退き口ルート【関ケ原古戦場完全ガイドvol.5】

松尾山からの裏切りで混乱する西軍、
大谷吉継の自害、宇喜多秀家隊、小西行長隊、石田三成隊の敗走。
ぐるりと的に囲まれ、敵の中に孤立してしまった島津軍。

その選択はまさかの東軍の中を駆け抜ける敵中突破。
島津軍300のうち、生きて戻れたのは80数名といわれています。

苦しい帰路の中で東軍・井伊直政隊の追撃という激戦を戦い抜いた【島津の退き口】。
ここは島津軍の陣跡と同じくらい、関ヶ原古戦場の中でも必見の史跡です!

島津軍の足跡を体感したいという方におすすめです。
私は車でたどりましたが、それでも苦しい戦いを想像し、体感することができました。

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

関ヶ原古戦場の島津軍の陣跡

陣跡は関ヶ原町の神明神社の奥にあります。大谷吉継と湯浅五助の墓、平塚為広の陣跡の近くです.
大きな石碑があり、島津義弘の陣跡と書かれています。

後ろには踏破隊の顕彰碑があります。

踏破隊とは、鹿児島の子どもたちが、夏休みを使って島津軍の敗走ルートを実際に歩くというもの。
昭和35年から始まった取り組みで、今でも毎年子どもたちがやってきて島津の歴史を体感しています。
その踏破隊で関ヶ原を訪れた子どもたちの名前が石碑に書いてあります。

そのルート、大人でもシンドいハードなものなんです!

関ヶ原の島津の陣跡から上石津町、三重県いなべ市、滋賀県多賀町から大阪城までと総距離120キロを歩きます。
特に駒野峠から五僧峠の山越えは2日で70キロ

1日で35キロ歩くなんて、経験したことない・・・!

島津軍もこの山を超え、敵将だけでなく山賊などの危機と戦いながら鹿児島へ帰ったのですね。

ひえー、すごい体験学習。
我が子が鹿児島っ子だったら参加させたいプログラムです。

子どもたちも厳しい山越えを経験して、自信がついたなどの前向きなコメントで地元新聞の取材にこたえていました。

少し離れた笹尾山の方に薩摩池という名前の池もあります。
これは島津に関係ある池なのでしょうか。詳しいことはわかっていませんが、なにか関係があるのかもと想像をめぐらせるのも面白いです。

所在地:関ケ原町大字関ケ原1869-3
駐車場:4台
WC:なし

 

島津の退き口を俯瞰で見る平和の杜・400年公園

関ヶ原古戦場めぐりで、ぜひ時間を取って巡っていただきたいのが島津の退き口ルート。
陣跡だけでは、島津軍の敵中突破が感じられず、物足りないことでしょう。

退き口関連は、関ヶ原ではなく大垣市の飛び地である上石津町に史跡があります。

西美濃歴史の取材記事で訪問した時は、上石津町のガイドさんにお願いして案内いただきました。

俯瞰図で敵中突破ルートを見るなら、関ヶ原町の21世紀公園がおすすめと聞き、行ってみました。

ここから見える山と山の間を通り抜けていったのだそうです。

所在地:関ケ原町大字関ケ原1874-2
0584-43-3054(関ケ原町産業建設課)


烏頭坂と島津豊久顕彰碑

関ヶ原から約4キロ離れたところにある上石津町。
最初の史跡は烏頭坂です。こちらには島津豊久の顕彰碑と薩摩ベンチがあります。
この場所で豊久が殿を務め、井伊直政と松平忠吉を迎え撃った場所といわれています。

軍の数的にも圧倒的に不利な島津軍としては、「敵の数が少ない」「道幅が狭い」伊勢西街道は好条件
西軍は中山道から西へ下って敗走したので、東側の東軍の数が少なかったことと、山道が多い伊勢西街道は数の多い軍勢が一気に進軍できないので少ない軍勢でも戦えます。

そしてここでは、有名な捨て奸(すてがまり)という戦法をとります。これは足元に潜伏し、やってきた敵を一撃必殺で仕留め、あとはやりを持って捨て身で相手を食い止めるという壮絶な戦法。もはや命を投げ出して敵に向かうというもの。

実際に烏頭坂は尾根道だったということで、道幅の狭いところに立ってみました。
れで足元から決死の覚悟の敵将がでてくることを想像してみてください!

とんでもない恐怖ですよ!!

足元を見ると、お地蔵さま。
平和をお守りしてくださっているような、ほっこり感。

鹿児島の方にとってもこの場所は大切な場所ということで、2018年に薩摩ベンチをゆかりの史跡3箇所に寄贈してくださったそう。
座り心地の良いベンチで、腰掛けるとしばし平和を満喫できます。

所在地:大垣市上石津町牧田5078-9


琳光寺・長寿院盛淳の墓

島津軍は旧伊勢街道を通って、途中義弘隊は東、豊久隊は西へと2手にわかれます。
長寿院盛淳の墓がある琳光寺も退き口見学にはかかせないスポットです。

ところで、長寿院盛淳とは誰?

島津義弘の家老で、島津豊久についてすてがまりを行い、義弘からもらった陣羽織を着て身代わりとなって討ち死にした武将です。
琳光寺には、子孫が建てたという墓前碑と宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪の塔があります。

ガイドさんに宝暦治水のとき、薩摩藩士が必ず立ち寄りお参りしたというエピソードを聞きました。
激戦となった場所は琳光寺眼の前の大垣市牧田支所の東側で、こちらには顕彰碑があります。

階段で上り下りする場所ですが、かなり高台にあります。
当時はここは山の尾根筋だったのか、崖だったのか?
そんな想像ができる場所です。

所在地:大垣市上石津町牧田2487


勝地峠

伊勢街道最大の難所といわれた勝地峠。標高183メートルの山道です。

私は車で行きましたが、急な坂道の連続でこれを登るのも下るのもなかなか大変そうだなと思いました!

井伊の率いいる追撃軍は100名ほどが、島津軍の至近距離まで迫ってきたという絶体絶命の状態。
直政の猛追に家臣が追いつけず、ほぼ単騎駆け状態だったそうです。

豊久隊はここで最後のすてがまりを行い、川上忠兄の家人・柏木源藤(もとひさ)が銃を放ち、井伊直政への右膝関節に命中し、落馬した場所です。井伊直政はこのときの傷が致命傷となり、2年後亡くなったと言われています。

退き口の合戦の中でも大変な激戦区です。
ここでようやく東軍に追撃終了の命が下り、島津軍はなんとかこの峠を超えることができました。

ちなみに「かちじとうげ」というのは、この峠を米や茶、鷲見などが歩(かち)によって運ばれたことで、「歩路峠(かちじとうげ)」と呼ばれるようになりました。
天正11年(1583)に豊臣秀吉の軍が北勢攻めで勝利し、この峠を越える時、勝地と名付けたと言われています。

ここはぜひ実際に行って、道幅や山の急勾配を感じていただきたい場所です。
登るだけでも大変という感じが伝わります。

所在地:大垣市上石津町下多良882


白拍子谷(しらべしたに)

命からがら勝地峠を超えたものの、白拍子谷で力尽きた豊久勝地峠からここまで約15キロ行軍することになるので、負傷が激しい状態でよくぞここまで逃れてきたと思います。

豊久らがついたのは夕方6時頃と推測され、雨も深く、気温が低下し、負傷した武士の体力をどんどん奪っていく状態だったとも。
足手まといになることを懸念した豊久はここで自害してしまいます。

その場所である白拍子谷は、本当にひっそりとした場所。
ちょっと怖いくらいでした。

ここで亡くなった豊久はどんな気持ちだったのかなと、思いを馳せながら巡りました。

所在地:大垣市上石津町上多良2045-1


瑠璃光寺・島津豊久の墓

豊久家臣の三輪内助入道一斉が豊久の納骨を収め、菩提寺としたお寺です。お寺とお墓は離れているので場所に注意が必要です。
梵鐘にその経緯が記されています。

その近くの森では島津塚(薩摩塚)と呼ばれる豊久の墓と五輪の塔が祀られています。

所在地:大垣市上石津町上多良954-2


島津越え(五僧峠)

伊勢西街道をずっと山道を進み、伊勢東街道から来た義弘隊と合流した場所と言われています。
実際に車で瑠璃光寺から進みましたが、蛇行も激しくかつ山道なので本当に距離が長かったです。

今でこそゴルフ場があり、のどかな風景ですが命からがら薩摩へ向かう島津隊にとっては、体力を奪う恐ろしい行軍だったのではと思います。

木陰にちょっとした看板が建っています。

詳細は上石津ガイドマップから引用します。

鈴鹿山系を縫うように広がる時山は、駒の超えで再び上石津に入った義弘本体が、途中出会った織田秀信家臣の小林新六郎の案内で進んだところ。険しい山道を上り、五僧峠を超えて近江へと向かいました。五僧峠は島津隊が越えた峠として、江戸時代の頃より「島津超え」の別名で知られています。

所在地:大垣市上石津町時山609付近


島津の退き口の行き方

退き口は上石津町になるので、上石津町のガイドさんにお願いするのがおすすめです。
ガイドさんの申込みは、大垣観光協会さんへお問い合わせください。

大垣観光協会サイトはこちら 
電話0584-77-1535
岐阜県
大垣市船町2丁目26番地1  奥の細道むすびの地記念館内

※なお、東西両軍の陣営や場所、関ヶ原合戦全体を知りたい!という方は次の記事をご覧ください。
→【関ケ原古戦場めぐり・地元民による完全ガイド!トイレ情報あり

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カテゴリ:関ヶ原古戦場