今しかわからない石の情報がわかる「名古屋城の石垣修復現場見学会」

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2月11日に「名古屋城伝統の技にふれる2017 名古屋城石垣修復現場見学会」に参加しました。
約380名の応募の中から見事当選し、午後の部に参加。

午後は雪が舞い、凍るような寒さでしたが修復中でしか見られない石の情報や、石垣の中身などが見られて貴重な体験ができました。



ヘルメットを被って2手に分かれて見学


集合は二の丸広場の端。
すでに後ろは立入禁止の看板がありました。
これから立入禁止区域に入れると思うとワクワクしますね。

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テントで受付を済ますと、AかBのどちらかに振り分けられたネームプレートをもらいました。
私はBでした。
後ほどふた手に分かれて、石垣から取り出した石の説明、現在修復中の石垣の修復現場をそれぞれ見に行きます。

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もらった資料を熟読。
石の種類の名前など結構難しい内容なので、あとでしっかり読む。

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まずBグループは石垣の石の説明を聞きにいきます。
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解説の石垣調査会社の担当の方。

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現在こちらに取り出し修復する石の数を当てるクイズを出題されました。
なかなか正解がでませんでしたが、答えは約4000石だそうです。

そして名古屋城で使われている主な石の種類を3つ聞きました。

1・花崗岩(かこうがん)
2・花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)
3・砂岩(さがん)

最初に築城に関わった20大名の出身地近辺から材料を持ち込んでいるので、名古屋城の石垣は非常にカラフル(石垣の中では)ということでした。

その産地によってもよく採れる石が違います。
例えば篠島で採れた岩は、花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)、岐阜の養老や南濃町あたりは砂岩で、石の種類で産地がだいたいわかります。
ちなみに小牧山付近の岩崎山、東谷山あたりからも石を持ってきたようです。

大名で言うと、紀伊藩の浅野幸長の場合、持ってきたのは熊野の紀州産の石で、グレーのはず石(花崗閃緑岩)だったそうです。

しかし石垣もちょこちょこメンテナンスしていかないと崩れたり、壊れてしまいます。
築城後からのメンテナンスの履歴も石の種類でわかるというのが面白かったです。

例えば恵那の花崗岩などを使用している場所があったようで、築城当時は恵那から石を持ってきていなかったということや、近年は大きな花崗岩が取れる場所がないから恵那から採ってきたのではという見方ができるそうです。

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実際に石垣に入っている石を見る


この大きな石の説明を受けます。

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指を指している黒い線ですが、これは石にもともと垂直に引かれていた線。
斜めになっているということは、斜めに切って使っていた石であることがわかります。

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名古屋城の見学会のレポートによると、乱積と布積の2つの積み方があり、乱積が築城期の積み方で、布積みが積み直しを行った時の積み方ということでした。

築石の横の列が通る「布積」と横の列が通らない「乱積」の二つの積み方が用いられている状況や、「乱積」が名古屋城の築城期の石垣であり、「布積」は積み直しが行われた可能性があることを説明しました。布積部分の積み直しは残されている史料から天和2年(1682)に積み直されたと考えられています。


修復前と修復後の石が入り混じり、どこが築城期で、どこが後から直したところかが石でわかるのが面白いなと思いました。

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こちらは石垣を安定させるための「敷金」。
刀鍛冶が作った鋳物なので非常に重いです。

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割れ目にそって穴を入れて石を割るのですが、時代が新しくなるとその穴が小さくなるのだそうです。
穴が小さいものはあとから修復した石垣と判別しているのだとか。

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いろんな石を自由に見たり写真を撮ったりできました。
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誰か困ったんでしょうね。ひっつき虫気をつけて!
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名古屋城の石材は比較的大きく、いろいろな石が使われているのがわかる場所。

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参加者の方が、この矢穴はなんだろうと学芸員さんに質問していました。
プロは「石の目」がわかるそうですが、新人さんでおそらく割れなかったのだとか。
それで見せしめ(今後うまくなるように)目立つところに飾っているのではないかと回答されていました。

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堀で管理される石垣の石たち。
ビニールシートにくるまれています。

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あまりに寒い日なので、温かいお茶のサービスがありました。
これは嬉しかったです。

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埋見門、なかなか入れない水堀


お次は水堀のところに降りて石垣を見学します。
脇道には石垣の中からでてきた砂が保管してありました。

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結構下の方までおりました。
これはなかなかできない経験です。

名古屋大地の上に本丸御殿や天守があり、今修復している本丸馬出搦手門は濃尾平野の砂の上に作られています。
砂の強度を上げるため、土台を作って積んで重しをかけて強度をあげていたようです。
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左の石垣が鍋島藩担当の石垣、右の石垣が前田藩担当の石垣だそうです。
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こちらは鍋島藩の担当した石垣で、使っている石は花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)
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こちらは前田藩のもので、使用しているのは砂岩。
いざという時の脱出用にもなるという埋見門(大きな石の部分)もあります。

築城後5~6年後に、藩主は二の丸に住まいを移したので、お庭で遊ぶための船着き場へいっていたのではとのこと。
予想では、下に降りるために石垣の裏には階段があるかもしれないけれど、それは石垣を出してみないとわからないよねということでした。
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そして水堀。
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こちらが現在修復中の石垣。土のうが積んであります。
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土台部分、下から3番目の石垣が前に出てきている部分の補強工事を行うのが今回の工事の目的です。
やり方は昔の工法と現代の工法のミックスで、4メートルの松の杭を打って砂と砂の密度を上げ、三角に結んで200キロの石を乗せて地盤の密度を上げ、強度を上げます。さらに前にでてこないように擁壁を作って、防衛していきます。

江戸時代の職人もこの地盤弱いと思っていたのか、対策はいろいろ打っていたようです。

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関係者しか入れない空堀、水堀なので自由に見学して、写真などをとる時間もありました。
学芸員さんのお話で面白かったことを抜粋します。

・石垣技術は築城当時のほうが格段にレベルが高い。石垣は本来端が反っているのがセオリーだが、そうなっていないところは修復したものと判断。

・職人さんの腕が石垣にも如実に現れる。昔は力学なんかないので、経験だけでこの工事をやっていて、約400年持っているのだからスゴイ

・築城当時(戦国時代、江戸初期)は石工たちは築城ラッシュだから技術も磨き伸びていった。
情報収集など横のつながりも活発で技術向上の機会に恵まれたが、平和な世の中になってからは必要なくなった技術なのでどんどん技術がおちてしまったのでは

今でも使える土木技術が400年前にもあったというのは、驚きますね。
一般人は堀の中なんか入れませんし、修復時でないと石垣の石を見ることもありません。
この石垣修復見学会は、貴重なものをたくさん見せていただけて本当におもしろかったです。

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当時の20大名の築城方法を鑑賞するとか、修復した履歴を楽しむとか、お城の新たな楽しみ方も学べました。
来年も開催されることを願っています。


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カテゴリ:戦国ネタ